Butchの140字じゃ収まらないっ!β版

何も起こらない人生で何をしていくか。

メルカリ出品の行動経済学

 

皆さんはメルカリに何か出品したことはあるだろうか。

自分は欲しいものを見つけた時や断捨離がてらにメルカリを利用することがある。頻度はそんなに多くないのだが、やる時は一定期間はのめりこむ。今がまさにその時だ。

 

値付けという悩み

商品を売りに出すときに重要な要素の一つに価格がある。メルカリで商品を出品する際に価格をどう設定するかで悩む。また、出品した商品を後から値下げすることもできる柔軟性があるため、価格を下げるにしてもどこまで下げるべきかでまた悩む。買ってもらいたい。でも、安すぎるのはちょっと嫌。

 

不合理な価格設定

そんなときは自分は大体、出品する商品の購入金額をなんとなく思い返す。それよりかはちょっと高い値段をつけてみる。しかし、売れない。でも、これより安く売るのは何だか損した気分なので、値下げせずに少し待ってみるも売れない。

 

原因はどこにある

行動経済学的に自分の行動を考えてみる。

過去の購入金額というサンクコストを参照点にして、それを下回ることを回避したいという損失回避バイアスが働いていると考えられる。また、そこから値下げしないという現状維持まで働いてしまい、一向に売れない状況になっている。

 

改善策①:市場価値を把握する

まず、出品する商品が実際にいくらで売れているかを確認すべきだ。売る側が自分勝手につけた値段で誰かに買ってもらえるとは限らない。買ってもらえると期待できる金額を把握しないことにはいつまでたっても売れるわけがない。だからこそ、先に売りたい商品の価格がどれくらいで売れているかをまずは確認している。

 

改善策②:過去のコストは気にしない

そして、例え市場価値が仕入れ値やこれまでの費用と比べてそれ以下であっても気にしないことが大事である。これは前に記事でも書いた通りで、それらサンクコストは無視する。気にしてしまうのは仕方がないのだが、それ以上の価格設定すると売れ残ってしまう可能性が高い。なぜなら他の出品者が同質の商品を自分よりも安く出品すれば買い手はそっちに流れてしまうからだ。今はそうした機会損失を避ける意識をもって値付けしている。

 

改善策③:損より得への意識

また、損することばかり意識するのではなく、今の状況から1円でも得することを意識することも大事だ。初めに設定した金額よりも下げれば売れるのであれば下げるべきだ。その金額に固執してまた買ってもらうチャンスを逃すのは勿体無い。だからこそ、商品の売れ行きに合わせた価格の変更を行うことを心がけるようにしている。

 

まとめ

こうした改善を行ったことでほとんど売り切ることができた。ただ、どうしても納得いかない価格で売りにないと売れない商品は売らないことにしている。誰かにあげたり、もう少し様子を見てから出品するようにもしている。

参考になったなら、幸いです。

 

どうしても損は避けたい話

 

こんにちは。

皆さんは良さそうな商品を見つけて、買うかどうか迷いに迷って、結局買うのをやめた経験はあるだろうか。

 

実体験

また本の話で恐縮ではあるが、自分が読んでみたいと思う本は大体、一冊2,000円〜3,000円くらいする。自分としてはそんなに安い金額ではないので、それなりに欲しい本でない限り即購入できない。それにこれほどの額を払ったのに、読んでみたらつまらなかったり、読了できないなんて経験は避けたい。

 

損失回避と現状維持バイアス

行動経済学ではかなりお馴染みのバイアスである損失回避。人は得することよりも損することに強く反応する。そして、損だと感じるとそれを避けようとする心理のことである。また、その結果として何もしないという現状維持に繋がってしまう(=現状維持バイアス)こともある。

 

損失回避と自分

損失回避は自分の場合、よく起こる。

例えば、UFOキャッチャーの景品が中々取れなくて、多く課金をしてしまう時。休日の予定を立てるにしても、いくつかの候補に対して損するイメージが湧くと無駄な1日になってしまうと思い、結局選ばず、ずっと部屋にいてしまう時と様々である。

いつも得するよりも損しないかどうかを気にしてる。問題なのは、損失回避は無意識でできるのに対して得することは意識しないとできないことだ。

 

フレーミング

何を損と意識するかを自分でコントロールする。例えば、つまらないかもしれない2000円の本を買うのが損だと思ってしまうとする。しかし、その本を買わないことで得られたであろう知識や充実した時間を得られないと意識する。つまり、買う意欲があるのに損失回避のせいで買う機会を逃しているのであれば、買わないことでの損を意識することで買う意欲を刺激する。俗に言うリフレーミングである。

 

ここまでしても変わらないなら

この様な対策を講じても買おうとすら思わないなら、それはもう欲しい本でも何でなく、ただ気になっただけの本。それならいっそのこと、いつか古本屋で見つけた時、読む本がなければ買えば良いと思って買わなければいい。それだけで一つの悩み事が減るのだから。

 

これまでを無駄にしたくないをやめた話

 

こんにちは。

皆さんは読書をするだろうか。

 

自分は行動経済学関連の書籍も含めて、読みたい本を月に一、二冊読む。高校生までは活字が苦手で読書するのさえ億劫だった自分がまさか大学生になってから好きな学問のために読書するようになるとは思いもしなかった。人生、何が起こるか分からないとはよく言ったものだ。

 

実体験

自分が今まで手に取った本の中には読みにくい本があった。自分の知識や経験、語彙などが圧倒的に不足しているためか、そういった本を読む機会がある程度あった。読みにくいからと言って、お金を出して買っている。それに時間もかけてある程度まで読んだのだから最後まで読むことにする。だが、そう言う時に限って、読むのが辛かった事を超える喜びを得られたことが殆どない。

 

サンクコスト

経済学では、すでに支払ってしまった費用の事をサンクコストという。この費用というのは、お金に限らず、時間や労力も含まれる。そして、こうした過去のことを気にするあまり、これからの選択にまでそれを基準に決めてしまうことをサンクコストバイアスと呼ばれている。

 

サンクコストと自分

上述した通り、読みにくい本を読み続けるという選択はまさしくサンクコストを基準に行動しているとしか言いようがない。読みにくく、ましてや辛いならすぐにでも読むのをやめて、次の本に取り掛かるべきだ。しかし、上述した理由でそれが中々できない。自分はもうハマってるのだ、サンクコストバイアスに。

 

基準は“これから”だけで良い

過去の悪いことを基準に意思決定するのを辞めて、将来の良いことだけを基準に意思決定することだ。そもそも自分が読書をするのは新たな知識の発見や好きな事への理解を深めたいからだ。それなのに読むことばかりに意識が回ってしまい、本の内容が頭に入ってこないでは本末転倒だ。それを我慢してまで続けたら、最悪、自分は読書嫌いになってしまうだろう。これから読書する機会が失われることは自分にとって大損だ。

 

大胆に“これまで”をやめてみた

そんなわけで、最近は読みにくい本やつまらない本は読むのをやめて、捨てることにした。一冊でも自分の読みやすい本を手に取り、自分で得られる知識を得ていく。それだけで読書するストレスもなくなり、より読書が楽しいものになったのは事実だ。皆さんも“過去のこと”で判断するのはやめて、“これまでのこと”だけを基準に判断することをオススメします。

 

序章として。

 

こんにちは。

自己紹介はもう辞めて、好きなように書いていくスタイルに変更する。

 

大学受験の話

いきなりだが、学校のテストが苦手な自分は世間的にかなり偏差値の低い大学に入った。受験に対して本気になれず、勉強できなかったので受験にも失敗した。しかし、滑り止めの大学が受かったのでそこに入ることにした。

 

大学進学の理由

理由は4年間というモラトリアムと大学卒業という肩書き欲しさ。それもあるが、一番の理由は歯に衣着せぬ物言いが(個人的に)面白かった社会科の先生が一枚のプリント用紙に行動経済学という学問について引用していたことがきっかけだった。

 

大学時代の話

そして、その大学に入り、行動経済学を学ぼうと思ったが、その大学では行動経済学が科目に無かった。だから、基本的な経済学の授業と並行して行動経済学を独学で勉強していた。分からないことはゼミの先生や他の先生に聞いて理解を深めていった。

 

現在

それから数年の年月が経って、未だに行動経済学が好きである。関連書籍も自分の信頼のおける先生の本を中心に読んだりして更なる理解を深めたつもりだ。

 

しかし、こんなに好きな事を学んできたのにそれを実生活に活かしたことがほとんどない。趣味だから気にすることではないのだが、行動経済学は、企業のマーケティングや国の政策で使われるように人々の選択に大きく関わっている。それならその知見を個人レベルで考えて、自分の行動をより良い方向に変えていくという事もできるはずだが、それを書いた書籍やネット記事はあまり見たことがない。

 

やってみることにした

だから、自分でそれをやってみることにした。そして、その考察をこのブログに投稿してみる。ただ、自分個人の行動についての話である故、書店に売ってるような万人受けする行動経済学関連の書籍とは比べようもないほど内容に偏りがでるだろう。ちょっとした読み物として楽しんで読んでもらえればそれでいい。

 

そういうわけで、ちょっとした出来心でまた投稿してみる。

 

【番外編】ヒーローと戦争

 

番外編と題して続けるButchです。

 

今回は戦争から見る英雄(ヒーロー)について考えていこうと思います。

 

❝戦争❞がもたらすヒーローの意味

 

よく戦争で兵隊の中でも大きな成果を上げると国から勲章を貰ったり、巷では英雄として崇められるなどをよく見たり、聞いたりします。

 

その国内においてその者はヒーローでしょう。国民を守るために自分の命を懸けて戦地へ赴き、戦い抜く。正しく、「自分を犠牲にして誰かを助ける」に他なりません。

 

しかし、反対に敵国はどうでしょうか。相手国は何人のも命を犠牲にして、自分たちの国を守っている。ある意味、「誰かを犠牲にして自分の理想を叶える」という点では悪党です。

 

誰かを助けるために誰かを犠牲にする行為、"ヒーロー=悪党の構図"が成り立ってしまう。

 

❝誰かを守る❞ための❝誰かの犠牲❞

 

戦争とは、私のヒーローという概念に大きな矛盾を突き付ける事案なのです。

 

そのような意味では、戦争とは、誰かを守る為に誰かが犠牲になることであって、立場の違いで人はヒーローにも悪党にもなってしまう

 

前にも話したように人間はヒーローにも悪党にもなれます。たとえ、自分にとってヒーローとして戦っていたとしても相手からしてみれば悪党なのです。

 

butch-marsk235.hatenablog.com

 

 

この記事をヒーローとは何者か?を投稿しているときに書いてました。改めて思うと、悪くないと思います。

 

ただ、改めて考えてみると、これは人間の争いの中で生じる事案です。

人と人との争いの中でヒーローだの悪党だのと決める方がお門違いなのかもしれません。

 

ではまた。

Vtuberとガワと赤月ゆに

 

どうも、Butchです。

 

今回は先月のツイートを遡って、書き足りない事について深堀していこうと思います。多分、このブログのタイトルからしてそうあるべきだと自分でも改めて気が付いた次第でございます。今後からそうすることにします。

 

 

先月、私は自分の過ちに気づき、改めて赤月ゆに氏(赤月ゆに 🦇(@AkatsukiUNI)さん / Twitter)に謝罪ツイートしました。当然、本人には届いてはいないとは思うが、なぜこのように考えを改めることにしたかの経緯をまとめようと思います。

 

元々、私は動画の中身や設定云々抜きにして、画面の中で立体的に動くキャラクターの総称としてVtuberという単語を扱っていました。赤月ゆに氏もそのように見ていたために下記の動画で彼女が否定したことに関して個人的には反対の意見を述べたわけです。

 

しかし、昨今のVtuberという存在に触れる機会が増えた私からすると、その指摘は間違っていました。なぜなら、Vtuberとは、見た目の良い着ぐるみを被った配信者でしかないと最近思うからです。そして、彼彼女らは”自分”を売っています。そこがかなり問題であり、”動画”を楽しみたい私としては困った事案でもあります。

 

Vtuberって、やたらと自分の話をするじゃないですか。俗に言う”ガワ”と表現されていますが、あれのせいで動画を盛り上げるための作り話なのか。それともガワの話なのか。その境界線がかなり曖昧で見ているこっちが疲れます。私は、Vtuberを見ながらその話の真偽を毎回のように確かめていました。それは動画投稿ではなく、配信という形で活動しているからだと私は考えてます。なぜなら、配信は突発的に反応するといった瞬発力に面白さが求められる。そもそもリアルタイムでコメントとやりとりするわけだからそりゃ、ボロがでます。それがガワという新たな個性というか、付加価値になるわけですが。動画には、基本的にそれは起こらない。なぜなら、動画”意図して作り上げる作品”であるからだ。不必要なところはカットできます。

 

配信みたいに作り手の中身までもが垣間見えてしまうと、配信よりも作り手に意識がむいてしまうことが個人的によくあります。反対に動画は作り手というポジションを超えないものという認識で見れます。今の私にとって作り手や演者が自分達の作品より前に出てきてほしくないんです。前に出てきてしまえば、私が不愉快になるか、最悪、ガチ恋勢という名のただのファンではいられなくなる。ただのファンでいられるからこそ、演者や作り手の幸せを祝福することができる。私が嫌な気持ちにならずに済むのです。

 

結局、何が言いたいのか。それはまさしく、赤月ゆにはYoutuberであることです。赤月ゆには赤月ゆにであり、配信もするけど動画投稿もちゃんと続けてくれている。それが一番、見ていて安心する。

 

ただ、ガワという付加価値は受けがいい印象がある。それがほとんど見受けられないためか、劇的な人気には至っていない。でも、超長期的に見れば、確実に登録者も増えると思う。何か話題性のある動画でバズることだってありえるわけだし。そこまでゆにクリエイトが続いてくれることを私は祈るばかりです。

 

ヒーローとは何者か〜リアルヒーロー編〜

 

どうもまだまだ修行が足らないButchです。

 

今回で❝ヒーロー❞とは何者か」のラストになります。

 

実際にヒーローはいるのか

 

いろいろと自分の考える、思う❝ヒーロー❞像とやらを書き連ねてきましたが、

 

最後に考えるテーマはこの世の中にいる❝ヒーロー❞って誰なのかということです。

 

改めて個人的なヒーロー❞の定義を書いておきます。

力の優劣や立場・属性に限らず、自分を犠牲にしてでも誰かのために戦う者

 

 

このような人って、実際にいるのでしょうか。

 

私個人としては、やはり両親が頭をよがります。

 

私の両親は決して好きなことを仕事にしているわけではないと思います。よく仕事行きたくないと母が口から漏らしていますしw。それでも(両親にも言えますが)私や弟のために仕事をして、稼いだお金でご飯を作ってくれます。欲しいものを買ってくれます。

 

そして、私自身、去年から新入社員として会社に勤めてみて、その偉大さとありがたみをまじまじと感じました。

 

きっと辛く嫌な日でも会社に向かい、悪くもないのに頭下げて謝ったり、得意分野じゃないなんて思っても自分たちの為に働いてくれていたのではないかと思うと、私の中では❝ヒーロー❞です。

 

きっと他にもたくさんいるはず。そして、いつか自分も。

 

しかし、これはあくまで私の話であり、一つのケースにすぎません。

他にもきっとあるはずです。

学校の先生、スポーツ選手、親戚、友達、兄弟、医者、看護師etc…

 

テレビのヒーローのように華やかではないけど、世の中には力の優劣や立場・属性に限らず、誰かのために自分を犠牲にしながら戦ってる人がいると思います。

 

いつか私も貴方も誰かのヒーローになるかもしれなません。その時、私は全身全霊で❝ヒーロー❞になります。

 

 END.