Butchの140字じゃ収まらないっ!β版

何も起こらない人生で何をしていくか。

Vtuberとガワと赤月ゆに

 

どうも、Butchです。

 

今回は先月のツイートを遡って、書き足りない事について深堀していこうと思います。多分、このブログのタイトルからしてそうあるべきだと自分でも改めて気が付いた次第でございます。今後からそうすることにします。

 

 

先月、私は自分の過ちに気づき、改めて赤月ゆに氏(赤月ゆに 🦇(@AkatsukiUNI)さん / Twitter)に謝罪ツイートしました。当然、本人には届いてはいないとは思うが、なぜこのように考えを改めることにしたかの経緯をまとめようと思います。

 

元々、私は動画の中身や設定云々抜きにして、画面の中で立体的に動くキャラクターの総称としてVtuberという単語を扱っていました。赤月ゆに氏もそのように見ていたために下記の動画で彼女が否定したことに関して個人的には反対の意見を述べたわけです。

 

しかし、昨今のVtuberという存在に触れる機会が増えた私からすると、その指摘は間違っていました。なぜなら、Vtuberとは、見た目の良い着ぐるみを被った配信者でしかないと最近思うからです。そして、彼彼女らは”自分”を売っています。そこがかなり問題であり、”動画”を楽しみたい私としては困った事案でもあります。

 

Vtuberって、やたらと自分の話をするじゃないですか。俗に言う”ガワ”と表現されていますが、あれのせいで動画を盛り上げるための作り話なのか。それともガワの話なのか。その境界線がかなり曖昧で見ているこっちが疲れます。私は、Vtuberを見ながらその話の真偽を毎回のように確かめていました。それは動画投稿ではなく、配信という形で活動しているからだと私は考えてます。なぜなら、配信は突発的に反応するといった瞬発力に面白さが求められる。そもそもリアルタイムでコメントとやりとりするわけだからそりゃ、ボロがでます。それがガワという新たな個性というか、付加価値になるわけですが。動画には、基本的にそれは起こらない。なぜなら、動画”意図して作り上げる作品”であるからだ。不必要なところはカットできます。

 

配信みたいに作り手の中身までもが垣間見えてしまうと、配信よりも作り手に意識がむいてしまうことが個人的によくあります。反対に動画は作り手というポジションを超えないものという認識で見れます。今の私にとって作り手や演者が自分達の作品より前に出てきてほしくないんです。前に出てきてしまえば、私が不愉快になるか、最悪、ガチ恋勢という名のただのファンではいられなくなる。ただのファンでいられるからこそ、演者や作り手の幸せを祝福することができる。私が嫌な気持ちにならずに済むのです。

 

結局、何が言いたいのか。それはまさしく、赤月ゆにはYoutuberであることです。赤月ゆには赤月ゆにであり、配信もするけど動画投稿もちゃんと続けてくれている。それが一番、見ていて安心する。

 

ただ、ガワという付加価値は受けがいい印象がある。それがほとんど見受けられないためか、劇的な人気には至っていない。でも、超長期的に見れば、確実に登録者も増えると思う。何か話題性のある動画でバズることだってありえるわけだし。そこまでゆにクリエイトが続いてくれることを私は祈るばかりです。